平成の百姓一揆を始めるワケ

食べることは、他の生きものの命で自らの生きものとしての命をつなぐ営みだった。そこには、感謝、祈り、感動があり、食べものは“命”の根源として大切に扱われていた。翻って現代の日本では、食べものが工業製品と変わらない“モノ”として扱われ、食べることがまるで車にガソリンを給油するかのような工業的食事に様変わりしてしまった。そうして食卓から感謝、祈り、感動は消え、消費者は生きるリアリティから遠ざかり、生存実感に飢えている。一方、生産者は正当な評価を得られず、買い叩かれ、後継者不足が深刻化。その結果、過疎問題がこの国の生産現場を覆い尽くそうとしている。なぜ、このようなことになってしまったのだろうか。

見た目で食べものの価値が決まる不思議な社会

それは、食べる人からつくる人の姿が見えなくなってしまったからではないだろうか。巨大な流通システムによって分断された消費者と生産者は、都市と農山漁村という異なる世界で別々に暮らし、お互いへの関心を失ってしまった。消費者が得られる食べものの情報は、値段、見た目、食味、カロリーなど、すべて消費領域のものだ。これらの表面的情報が食べものの世界を支配している。そして私たちは今、味はまったく変わらないのに、見た目で食べものの価値が決まる不思議な社会に生きている。いびつな野菜たちは、市場では売れない。スーパーで売られている綺麗で、安全で、汚れのない食べものは、まさに工業製品のようである。インターネットで売っている野菜の画像も、土をはらってピカピカにした野菜をプロのカメラマンが撮影している。また、食べものに過剰なパッケージと、過剰な添加物と、過剰な広告費を投入している現在の食品企業のおかげで、消費者は食品から命の痕跡を抹殺できるようになっている。

このような現在の食品流通システムの巨大さを前にして、生産者はなすすべもない。では、どうすればいいのか。都市の完成された消費社会が喪失した身体性、精神性、関係性、多様性が色濃く残る生産現場の豊穣な世界に生産者自身が今一度目を向け、再発見し、消費者に伝えていくべきではないだろうか。食べものの表側にあふれる食品メーカーがつくる“味の物語”を、食べものの裏側に隠れてしまった生産者が紡ぐ“命の物語”に編集し直していくのだ。その“命の物語”には、バーチャルな消費社会を凌駕する圧倒的なリアリティがあり、消費者に多くの「気づき」、「学び」、「価値の転換」をもたらす。生命を育み、生命が奪われていく過程に携わる生産者と、奪われた生命を自分自身の生命維持のために取り込み、活かす消費者が交流し、融合していくことで、消費者は自分の生命が“命の循環”の輪の中にあることを自覚し、生きることの実感をたぐり寄せることができる。

食べるという日々の行為は、自然を文化に、そして自然の一部を私たちの肉体と魂に交換することを意味する。「カリスマシェフ監修の味です」などの聞こえの良い宣伝文句をまとった工業化した食べものを栄養補給よろしく食べること、背景を何も知らないまま食べることは、はかなく空疎な楽しみしかもたらさない。本当に心に残る食べものは、その背景にある物語が、食べる人を圧倒させるものなのである。食べものの背景を知ることによってのみ深まるような食べることの喜びは、他では経験できない満足や感動を暮らしや人生に与えてくれる。

食べものの裏側から消費社会の中に躍り出て、自然の通訳者として“命の物語”を語るのである。生産者が語らずして、誰に語ることができようか。その“命の物語”に共感した消費者は、自らの食卓に花開いた食べる喜びの物語で呼応するだろう。今こそ、日本の食の未来に当事者意識を持った生産者と消費者が連帯し、立ち上がるべきときである。壊滅寸前に追い込まれた一次産業と農山漁村を、“命の物語”が生み出す力で立て直すのである。平成の百姓一揆は、生産者と消費者が“命の物語”を共同編集し、食のグローバル化に勝てずとも負けない道を未来に切り拓くことで達成できる。

ここに、“世なおしは、食なおし。”の旗を掲げ、全国各地に同志を求めるために47都道府県を回るキャラバンを開催することを宣言する。私たちが暮らす資本主義と民主主義の社会では、私たちが貨幣と票で選んだ結果が目の前の現実として立ち現れている。つまり、私たち自身が選んでつくったものだ。自分たちの手でつくったものならば、自分たちの手で変えることだってできよう。このまま手をこまねいていては、日本の豊かな食の世界は荒廃していく一方である。手遅れになる前に、共に立ち上がろう。

本企画へのお問い合わせ、共催のご希望、取材のお申し込み等は下記よりお願いいたします。

info@poke-m.com

各座談会へのお申し込みはこち